歴史系ジョークブログ(仮)

名前のまま歴史系ジョークを主に掲載するブログ。気まぐれ更新。

豊臣家・有能ダービー3

有名な人材が多いから調べてて楽しい

「豊臣家有能ダービー3」

 

・注釈

この企画は豊臣家の中で一番有能な人材は誰なのかを私の独断と偏見、にわか知識で適当に考察するネタ企画です。ちなみに大和大納言こと秀長さまは不戦勝。

 

 

加藤 清正(虎之助)

戦、行政、築城とマルチな才能を持つ豊臣系武将の代表格。福島正則(後述)と並べられる事が多い彼だがその実はかなり異なる。

 

・身分

肥後19万石の大名にして官位は従五位下「主計頭」。秀吉死後の事ではあるが豊臣家から「豊臣」の姓を授かったりしている。

 

・貢献度

ご存じ賤ケ岳七本槍の一員であり、朝鮮出兵の際には独走を持って一躍名を馳せた清正。そんな武勇系の活躍が目立つ彼ですが、実は案外内政系だったとか。熊本城に代表される築城の才は有名ですが、その他にも治水、商業などの内政においても当代有数の名君だったのです。そんな彼の豊臣政権下における唯一の欠は、領地が小西行長と隣同士だった事じゃないでしょうか。

後本来この企画は秀吉が死ぬまでが評価範囲なのですが、彼や福島正則などは秀吉の子秀頼の代になっても豊臣家に一定の忠を尽くしていますのでそれも評価に入れます。

・・・黒田さん?さて何のことやら

 

・貢献度(秀吉死後)

関ヶ原では西軍につき、その後も家康=幕府の元で動いていた清正。しかし領地内の「蔵入地(豊臣家の直轄領)」を解体せずに残していたり、豊臣と徳川との間で和解の斡旋をしていたりと、幕府の天下支配を認めつつも、旧主である豊臣家には依然忠義を持ち、表裏から貢献をしていたと言えるでしょう。

 

・逸話

彼の逸話の中で一番有名な「虎狩り」は実は黒田長政(官兵衛の子)のものらしい。しかしそれを差し引いても彼の武勇及び豪気を象徴する逸話は非常に多く、彼が殆どの人から脳筋武将のイメージを持たれているのもそれが遠因だと思われる。

 

・総評

総じて非常に優秀な人物。秀吉の純粋な子飼い武将の中では一番では無いでしょうか。

 

 

福島 正則(市松)

清正と並ぶ秀吉子飼い代表。知名度では一段落ちるが実績は・・・?

 

 

・身分

尾張24万石の大名にして官位は従五位下「左衛門大夫」。同輩の清正は九州に飛ばされた挙句19万石、軍師だった官兵衛も同じく九州で12万石という所を見れば、彼は秀吉子飼いの中でのみならず豊臣系大名の中でも大身であったことがうかがわれる。

・・・御し易かったのだろうか

 

・貢献度

そのイメージ通り数々の戦で武功を立てていますが、特筆すべきは賤ケ岳の戦い。「七本槍」の面々の中でも一番の功績を立てたと言われています。

 

・貢献度(秀吉死後)

とまあ秀吉存命時は中の上程の活躍を見せる彼ですが、そんな彼が真価を発揮するのは秀吉没後。関ヶ原の戦い時においては真っ先に家康に付くことを表明し、戦場においても八面六臂の大活躍、その功で50万石以上の大大名になるも城を改修したことを理由に転付。かろうじて二万五千石の大名として生涯を終えるも自身の遺体を早く燃やし過ぎたが為に改易。福島家は断絶するのでした・・・

・・・とまあそんな面白エピソードはこの企画の規定上勘定に入れません。前述の通り50万石の大身となり、幕府からも何かと目を付けられていた正則ですが、それでも清正らと共に豊臣=徳川間の会談を取り付けたりと他の豊臣系大名と比しても頭一つ抜けた忠義を尽くしていました。また、この時期の領地経営も意外と優秀な事も高評価。

 

・逸話

やはり荒くれもとい豪気な逸話が多い。無駄に徳川家の家人に喧嘩を吹っ掛けたりと、逸話だけ集めたら脳筋寄りの無能

 

・総評

徳川政権下の振る舞いが不味かったせいか後世に碌な逸話が残されていないのが痛い。尤も豊臣家にとっての有能度でいったら清正とそん色は無い。やはり豊臣家の柱石の一人だったと言える。

 

 

石田 三成(佐吉/治部少輔)

ご存じ五奉行筆頭にして今なお評価が上下する真田幸村タイプの御方。しかし関ヶ原の戦いだけの一発屋でも無かったりする。

 

 

・身分

近江19万石の大名にして官位は彼の通称でもある従五位下「治部少補」。とそれだけ聞くと前述の二人とさほど変わらない様に見えますが、近江と言うのは秀吉の旧領にして交通の要所。北陸・東国・畿内を一途に睨めるその領地を与えられたという事は、彼が豊臣政権の中でも特に尊重されていたという事実を表しています。

 

・貢献度

行政・政略方面での活躍が主なのは想像に違いませんが、特筆すべきはその多さ。堺や博多などの重要な街の町割り、整備を担当し、秀吉の天下統一事業に伴い必要になってくる多大な量の物資を確保・輸送し、配下に収めた上杉、佐竹、島津等の諸大名と豊臣家の斡旋を行い、更には明の使節団の接待役とかもしてたりする文字通り秀吉の右腕。半面その権限の大きさが周囲の反発を招いたのは周知の通りなのですが、それに関して彼に責任を問うのは酷でしょう。意外と武将としての活躍も多く、賤ケ岳の戦いでは一番槍の活躍を見せ、二度の朝鮮出兵のうち最初の方(文禄の役)では自ら渡海し戦ってたりする。なお忍城

 

・貢献度(秀吉死後)

そんな数多くの活躍が知られてない反面、秀吉死後の彼は色んな意味で有名であり、また賛否両論評価もこの辺りから来ています。この企画の評価では、最初(二年前)に述べたように東軍に付いたから不忠だとかは言いません。即ち西軍を率いたからと言って忠義者と言う判断もまた行いません。むしろ秀吉が死んで二年足らず、御家を真っ二つに引き裂いた戦争を起こし、その上で負けるというのは過程がどうであれマイナス点でしょう。

 

・逸話

一番有名な逸話は何と言っても「三杯の茶」。他にも軍師「島左近」を知行の半分を与えて配下にしたという事や、処刑寸前の柿を食べずに「最期まで体を大事にする」と言い放ったことなど、彼の才気が伺える逸話は多い。近年の研究では長年信じられていた「傲慢な官僚」としての逸話の殆どが、徳川政権下で成立した意図的に貶めるものだったとされている(多分。ソースはwiki)。

 

・総評

 いつの時代にもいる「優秀な官僚」。秀吉にとっての貢献度なら一番でしょうが豊臣家全体の調和を乱していた節は否定できない。