歴史系ジョークブログ(仮)

名前のまま歴史系ジョークを主に掲載するブログ。気まぐれ更新。

豊臣家 有能ダービー4

いぶし銀特集

「豊臣家 有能ダービー4」

 

・注釈
この企画は豊臣家の中で一番有能な人材は誰なのかを私の独断と偏見、にわか知識で適当に考察するネタ企画です。ちなみに大和大納言こと秀長さまは不戦勝。

 

 

・大谷 吉継(刑部)

三成の親友の器量人、という事以外あまり知られてないお方。そこそこの活躍があった事は容易に想定できるがその実は?

 

 

・身分

越前敦賀5万石の大名で官位は従五位下「刑部少補」。同輩たちが20万石前後の領土を与えられているのに対しいかにも小身だが、石田三成の「近江」と同じく、「敦賀」という地も政略上重要な土地であり、その意味で言うと九州に飛ばされた方々より優遇されていると言えます。

 

・貢献度

彼の知名度の大半を占める「三成の親友」という立ち位置に違わず、優秀な官僚であった三成の下での活躍が多いです。朝鮮出兵の辺りからは独自の功も多く、明国からは三成らと並んで豊臣政権の代表的な官僚だと見られていた様子。

 

・貢献度(秀吉死後)

今日日多くの方がご存じの通り、関ヶ原の戦いにおいては親友である三成に従って西軍に参戦、小早川秀秋の寝返りによって討ち死にします。戦いそのものにおいての功は非常に大きく、私個人の主観で言うなら高評価なのですが、今回の企画ではこの点は評価無しという所でしょう。

 

・逸話

多分一番有名なのは秀吉から「百万の兵を指揮させてみたい」と言われる物だと思われますが、残念ながらほぼ作り話らしい。後有名なのは三成とのやり取りが殆ど。

 

・総評

思ったよりも実際の活躍が多く、逸話は少ない印象。三成を越えるのは難しいか。

 

 

・仙石 秀久

世間では歴史上の人物と言うよりかは漫画の登場人物としての知名度の方が高いかと思われる武将。どことなく前田慶次を彷彿とさせる立ち位置。

 

 

・身分

大名としての領地は淡路五万石→讃岐十万石→改易信濃五万七千石、官位は従五位下「越前守」。見てわかる通り一度改易されながら同政権内で再び万石の大名に返り咲くのは中々の異例。彼の改易の原因は九州出兵時の大敗ですが、その失敗の大きさよりも、失敗を挽回しうる能力の方に着目するべきでしょう。

 

・貢献度

清正や三成などの秀吉子飼いの諸侯より更に前から秀吉配下として活躍する、言わば豊臣家最古参の武将である秀久。当然活躍も多く、特に四国攻めの際には前述通り十万石を与えられるほどの功を挙げます。まあこれもまた前述通り十万石の領地は一年程で改易されるのですが、関東攻めにおいては浪人衆を率いて文字通り自ら槍を振るっての活躍によって五万石を与えられます。

 

・逸話

関東攻めの際全身に鈴をつけ「鳴り物武者」と呼ばれたり、かの有名な大泥棒石川五右衛門を捕縛したり(ただしこちらは半分伝説の様なもの)と、戦国生え抜きの武将らしい豪気な逸話が多い。豪気と言ってもどこぞの福島さんの様に負の逸話が無い所も高評価。

 

・余談

彼は正真正銘豊臣恩顧の武将でありながら、徳川政権下においても尊重された珍しい大名です。豊臣家への貢献ではない為評価には勘定しませんが、その政治能力は決して脳筋武者にはあり得ない物です。

 

・総評

後世流行るだけの魅力はある人物。確かな実力に加え豊臣家では何気に珍しい立ち回りの上手さを持った歴戦の名将。

 

 

・浅野 長政

秀吉の妻寧々の義弟/義兄にして五奉行本来の筆頭格。後世三成が有名になり過ぎたために食われた感じがある。

 

 

・身分

甲斐21万5千石の大名で官位は従五位下「弾正少補」。見てお分かりかもしれませんが先に紹介した武将方々と然程に違いはありません。

 

・貢献度

 五奉行筆頭なだけあって、その活躍は政略・外交面、つまり諸大名と秀吉の間の取り次ぎ役や検地といった活動が殆ど。その対象は主として関東、東北大名であり、関東攻めや奥州仕置きなど、豊臣家の天下統一事業の仕上げに貢献した武将です。ただ、欧州の伊達政宗からは絶縁状を送られたり、関東の佐竹義宣の所には同僚の三成から「浅野に気を付けろ」なる連絡を送られたりとやけに嫌われている所まで三成と被っています。

 

・逸話

やはり立場が似ているせいなのか、三成と絡む逸話が多い。それも、ここでの三成は「秀吉に媚を売る奸臣」としての人物像であり、それと対立する位置づけの長政は自然と良識派、豪胆、忠臣といった人物になります。・・・長政の人物を褒めるための物と言うより三成を貶めるための逸話のような気もしますが。

 

・余談

秀吉死後は彼自身は目立った貢献をしておりませんが、息子の浅野幸長は後に加藤清正らと豊臣=徳川間の会談を実現させた人物です。

 

・結論

筆頭の割にどこまでも影が薄い。ていうか功績の面でも三成に負けているような。

 

 

 

次からは外様大名たちの特集に入ります。

豊臣家・有能ダービー3

有名な人材が多いから調べてて楽しい

「豊臣家有能ダービー3」

 

・注釈

この企画は豊臣家の中で一番有能な人材は誰なのかを私の独断と偏見、にわか知識で適当に考察するネタ企画です。ちなみに大和大納言こと秀長さまは不戦勝。

 

 

加藤 清正(虎之助)

戦、行政、築城とマルチな才能を持つ豊臣系武将の代表格。福島正則(後述)と並べられる事が多い彼だがその実はかなり異なる。

 

・身分

肥後19万石の大名にして官位は従五位下「主計頭」。秀吉死後の事ではあるが豊臣家から「豊臣」の姓を授かったりしている。

 

・貢献度

ご存じ賤ケ岳七本槍の一員であり、朝鮮出兵の際には独走を持って一躍名を馳せた清正。そんな武勇系の活躍が目立つ彼ですが、実は案外内政系だったとか。熊本城に代表される築城の才は有名ですが、その他にも治水、商業などの内政においても当代有数の名君だったのです。そんな彼の豊臣政権下における唯一の欠は、領地が小西行長と隣同士だった事じゃないでしょうか。

後本来この企画は秀吉が死ぬまでが評価範囲なのですが、彼や福島正則などは秀吉の子秀頼の代になっても豊臣家に一定の忠を尽くしていますのでそれも評価に入れます。

・・・黒田さん?さて何のことやら

 

・貢献度(秀吉死後)

関ヶ原では西軍につき、その後も家康=幕府の元で動いていた清正。しかし領地内の「蔵入地(豊臣家の直轄領)」を解体せずに残していたり、豊臣と徳川との間で和解の斡旋をしていたりと、幕府の天下支配を認めつつも、旧主である豊臣家には依然忠義を持ち、表裏から貢献をしていたと言えるでしょう。

 

・逸話

彼の逸話の中で一番有名な「虎狩り」は実は黒田長政(官兵衛の子)のものらしい。しかしそれを差し引いても彼の武勇及び豪気を象徴する逸話は非常に多く、彼が殆どの人から脳筋武将のイメージを持たれているのもそれが遠因だと思われる。

 

・総評

総じて非常に優秀な人物。秀吉の純粋な子飼い武将の中では一番では無いでしょうか。

 

 

福島 正則(市松)

清正と並ぶ秀吉子飼い代表。知名度では一段落ちるが実績は・・・?

 

 

・身分

尾張24万石の大名にして官位は従五位下「左衛門大夫」。同輩の清正は九州に飛ばされた挙句19万石、軍師だった官兵衛も同じく九州で12万石という所を見れば、彼は秀吉子飼いの中でのみならず豊臣系大名の中でも大身であったことがうかがわれる。

・・・御し易かったのだろうか

 

・貢献度

そのイメージ通り数々の戦で武功を立てていますが、特筆すべきは賤ケ岳の戦い。「七本槍」の面々の中でも一番の功績を立てたと言われています。

 

・貢献度(秀吉死後)

とまあ秀吉存命時は中の上程の活躍を見せる彼ですが、そんな彼が真価を発揮するのは秀吉没後。関ヶ原の戦い時においては真っ先に家康に付くことを表明し、戦場においても八面六臂の大活躍、その功で50万石以上の大大名になるも城を改修したことを理由に転付。かろうじて二万五千石の大名として生涯を終えるも自身の遺体を早く燃やし過ぎたが為に改易。福島家は断絶するのでした・・・

・・・とまあそんな面白エピソードはこの企画の規定上勘定に入れません。前述の通り50万石の大身となり、幕府からも何かと目を付けられていた正則ですが、それでも清正らと共に豊臣=徳川間の会談を取り付けたりと他の豊臣系大名と比しても頭一つ抜けた忠義を尽くしていました。また、この時期の領地経営も意外と優秀な事も高評価。

 

・逸話

やはり荒くれもとい豪気な逸話が多い。無駄に徳川家の家人に喧嘩を吹っ掛けたりと、逸話だけ集めたら脳筋寄りの無能

 

・総評

徳川政権下の振る舞いが不味かったせいか後世に碌な逸話が残されていないのが痛い。尤も豊臣家にとっての有能度でいったら清正とそん色は無い。やはり豊臣家の柱石の一人だったと言える。

 

 

石田 三成(佐吉/治部少輔)

ご存じ五奉行筆頭にして今なお評価が上下する真田幸村タイプの御方。しかし関ヶ原の戦いだけの一発屋でも無かったりする。

 

 

・身分

近江19万石の大名にして官位は彼の通称でもある従五位下「治部少補」。とそれだけ聞くと前述の二人とさほど変わらない様に見えますが、近江と言うのは秀吉の旧領にして交通の要所。北陸・東国・畿内を一途に睨めるその領地を与えられたという事は、彼が豊臣政権の中でも特に尊重されていたという事実を表しています。

 

・貢献度

行政・政略方面での活躍が主なのは想像に違いませんが、特筆すべきはその多さ。堺や博多などの重要な街の町割り、整備を担当し、秀吉の天下統一事業に伴い必要になってくる多大な量の物資を確保・輸送し、配下に収めた上杉、佐竹、島津等の諸大名と豊臣家の斡旋を行い、更には明の使節団の接待役とかもしてたりする文字通り秀吉の右腕。半面その権限の大きさが周囲の反発を招いたのは周知の通りなのですが、それに関して彼に責任を問うのは酷でしょう。意外と武将としての活躍も多く、賤ケ岳の戦いでは一番槍の活躍を見せ、二度の朝鮮出兵のうち最初の方(文禄の役)では自ら渡海し戦ってたりする。なお忍城

 

・貢献度(秀吉死後)

そんな数多くの活躍が知られてない反面、秀吉死後の彼は色んな意味で有名であり、また賛否両論評価もこの辺りから来ています。この企画の評価では、最初(二年前)に述べたように東軍に付いたから不忠だとかは言いません。即ち西軍を率いたからと言って忠義者と言う判断もまた行いません。むしろ秀吉が死んで二年足らず、御家を真っ二つに引き裂いた戦争を起こし、その上で負けるというのは過程がどうであれマイナス点でしょう。

 

・逸話

一番有名な逸話は何と言っても「三杯の茶」。他にも軍師「島左近」を知行の半分を与えて配下にしたという事や、処刑寸前の柿を食べずに「最期まで体を大事にする」と言い放ったことなど、彼の才気が伺える逸話は多い。近年の研究では長年信じられていた「傲慢な官僚」としての逸話の殆どが、徳川政権下で成立した意図的に貶めるものだったとされている(多分。ソースはwiki)。

 

・総評

 いつの時代にもいる「優秀な官僚」。秀吉にとっての貢献度なら一番でしょうが豊臣家全体の調和を乱していた節は否定できない。

豊臣家・有能ダービー2

懐かしい企画を拾おうシリーズ

 

「豊臣家有能ダービー2」

 

・概略

天下を統一した戦国大名「豊臣家」家中一同の中で一番の有能は誰なのかを、私の独断と偏見、にわか知識で適当に考察する二年前の企画。

久々見返したら何か見てる人がいたので復刻してみた。

 

・ルール変更

「立場」、「貢献度」、「忠義度」の三つの観点から評価をすると初回にて書いたのですが(覚えてないけど)、このうち「忠義度」の項目を「逸話」に変更します。・・・だってここに名前が載るような方々が秀吉存命時に忠義が無いはずないし・・・

 

 

 

竹中 重治(半兵衛)

知名度だけなら家中どころか戦国有数。なお・・・

 

・立場

官位も無ければ所領も無い。一秀吉の軍師以上でも以下でもない。まあ死んだのが36という弱冠なので致し方なしか。

 

・貢献度

よく半兵衛は何もしていないと一周回って言われがちだが、創作物で見る程度の活躍はしている。ていうか創作物の中で知名度相応の活躍はしていない。彼の一番の逸話は齋藤家の家臣だったころに稲葉山城を占拠した事

 

・逸話

特に無し。いや、調べてみたけど本当に特筆すべきことが無い。

このブログを見ているそこそこ歴史知識に覚えがあると推定されるそこの貴方、半兵衛の逸話を思い浮かべてみてください。

 

・・・ね?稲葉山占拠事件でしょう?

そういう事です

 

・総評

まあ予想は出来てたけど弱い。「羽柴家有能ダービー」ならいけるか・・・?

 

 

黒田 孝高(官兵衛/如水)

半兵衛と並び称される事が多い軍師。彼と異なるのは秀吉の死亡時まで存命だった事。大河にもなったため知名度でも一歩リードか。

 

・立場

備前12万石の大名。今の福岡県の辺りに50万石位の領地を持ったのは関ヶ原の後家康に貰った物なので除外。官位は従五位下「勘解由次官」。後述する貢献度の割には領地・官位共に案外こじんまりとした印象を受けるかもしれない。

 

・貢献度

中国攻め、四国攻め、九州攻めなど、秀吉=豊臣(羽柴)家にとって重要な戦の殆どで功を挙げている官兵衛だが、恐らく一番有名かつ大きな功は、小田原城無血開城せしめた事だろう。多分。半兵衛と異なり後の小倉藩の開祖と言う事もあり資料が豊富であり、言われているような多くの功が確実性の高いものだという事も大きい。

 

・逸話

関ヶ原の戦いを機に天下を狙っただの秀吉が官兵衛の器量を恐れて九州に追いやっただのやけに不穏な逸話の多いお方。しかし悪目立ちする不穏な逸話に隠れがちだが名君主、名軍師としての逸話も多い。

 

・総評

やはり大河になるだけあって優秀なお方。正直半兵衛と肩を並べているのは名前の語感によるものが殆どだと思う。

 

 

第三回へ続く!(多分)

歴史的事件を判例風に言い換えるシリーズ3

三回目にしてネタ切れの感が凄い

 

歴史的事件を判例風に言い換えるシリーズ3

 

 

「正長の土一揆問注所正元・8)」

 

・・・言うまでも無く幕府には大君から委任された日本国を統治すべき責務を誠実に遂行する義務があるのであり、民に徒に不安を抱かせるが如き政を行ってはならないのは勿論、凶作、流行病の天災に対してその為政者としての権限を以てして適切な判断及び処置を行う事もその義務の一部である。然るべくに幕府は将軍の相重なる代替わりによってその為政者としての責務を十全に行うことが出来ないどころか、かえって社会的不安を増長させているものであり、本件土民蜂起事件に至るにあたって幕府の非は明らかである。もっとも、「代替わりの徳政」なるものは本来幕府の慶事として行われるものであり、それを行うかどうかについては幕府の裁量の如何の他にはない・・・

 

 

バテレン追放令(奉行天15・6)」

 

・・・右府(信長)以来我が国において南蛮人の居住及びキリスト教布教の保証は、南蛮貿易のもたらす富と引き換えに与えられた所謂政策の枠内で与えられているに過ぎないと解するべきであって、その移住態度若しくは布教方針が右貿易の利益と到底釣り合わぬ物と判断された時には、その保証は当然取り消されると解されるべきである。本件においては、我が国の民を奴隷として海外に売り飛ばし、あまつさえ長崎をイエスズ会領とすることなど、その活動内容は一般的に想定される布教活動とは異なると解されるのであり、これらの悪行は直ちに是正されてしかるべきものである。もっとも、右布教活動とは関係のない民、とりわけ商人の類は各別の事であり・・・

 

 

「諸国平均安堵令(元3・7)」

 

・・・本来、法令には公定力及び不可変更力が認められるのであり、本令が先の旧領回復令その他の法令を事実上否定する事になる以上、本来であればこのような新令は朝令暮改の誹りを免れず、違法と解されるべきである。しかし、所領問題の解決は他の問題と比べても緊急性及び重要性の高い急務である所、先の令に拠っては公平で迅速な裁決が困難である事、ひいてはその裁可権が君にのみ存在する都合上、再び都の混乱を招くという弊害も見られることから、先の令は重大かつ明確な違法が認められるとみなされる・・・

歴史的事件を判例風に言い換えるシリーズ2

書けば書くほど味が深まっていくシリーズ。なお初期値

 

歴史的事件を判例風に言い換えるシリーズ2

 

 

尊号一件事件(評定所寛3・12)」

 

・・・本件は老中松平定信公並びに征夷大将軍ひいては江戸幕府そのものに禁中並公家諸法度の定める他に朝廷並びに公家に対する権限が及ぶのかという事が争点である所、我が国の大政全てにおいて、特に禁中の役人である公家の人事権は元来君の固有の権利である事には疑いが無い。しかしながら神君以来君は徳川将軍家に大政を委任しており、その権限は元来君が有していたもの全てに及ぶと解される所、一つ公家の人事権のみがその外にあるとすることは出来ない。その解釈は君が実父に尊号を授けるという一身分行為においても異なるものでは無いというべきである・・・

 

 

「赤穂事件(評定所元16・2)」

 

・・・元禄14年3月における浅野内匠頭の殿中抜刀騒動(以後抜刀騒動)に期を発する一連の処分は適法な物であり、処分を切腹かつ御家改易にした点においても、その当不当は処分の性質上将軍の裁量次第と言うべきであり、例え後に将軍家が被害者の非を実質的に認めるような意思表示をしたとしても、その意思表示が処分の取り消し又は撤回と認められるような特段の事情が存在しない限り、抜刀騒動の当不当を争うのは妥当ではない。よって抜刀騒動の処分に不服を持った赤穂藩の浪人による殿中襲撃並びに吉良上野介殺害(以後本件)は、それが社会通念上仇討ちと認められるような外形をもち、かつ本件当事者が事件後幕府に申し出たというような事情に照らしても、それを以て正当な仇討ちという事は出来ない・・・

 

 

「嘉応の強訴(太政官嘉元・12)」

 

・・・本来僧門はその規模の大きさ如何に関わらず、鎮護国家並びに民衆の精神的安定のみを目的に存在するものであって、特定の僧門が独自の武力と神秘性を背景に政に介入する事は、道鏡の先例を見るに、それがどのような事情、背景の元に行われても許されない絶対的禁止であることに争いの余地はない。しかしながらそのような事情の下で権大納言以下検非違使の軍勢が積極的かつ現実的に僧門の軍勢を追い払わず、その結果として本来無効である人事権の行使が行われたとしても、それが権大納言ひいては入道率いる平家一門に責があるという為には、それが治天の君並びに当該人事権を行使された朝臣にもっぱら不利益を与えようとした背信的悪意が存在するか、又は彼らがその職務を怠るにつけ重大な過失があることを必要とする・・・

 

アメリカンジョークin日本史9

田沼意次が昨晩身なりの良い怪しげな男と密会しました。何をしていたでしょう?

 

A  何もしてない。断じて。決して。

 

 

アメリカンジョークin日本史9

 

 

足利義満の始めた日明貿易は、明国から臣下として扱われる朝貢貿易であった。それをしった後小松天皇は、義満を召喚して問う。

太政大臣よ。そなたは明の皇帝と私、どちらの臣下なのだ?」

「当然君の臣下でありますとも。明の皇帝は私に計り知れない下賜を下さる為に臣下の礼をとっていますが、君は私に何を賜る訳でも無いでしょう」

 

 

従者「殿、向こうから院の列がやってきますが避けましょうか?」

土岐頼遠「院と言うか犬と言うか。犬ならば射てや」

従者「おや、あちらからは本当に犬の列が」

土岐頼遠「それはいい、闘犬用に欲しかったところだ。くれぐれも乱暴すなよ」

 

 

連敗を重ね、進退窮まった平家の棟梁平宗盛は、一族の長老平時忠に事態の打開策を相談した。時忠は言う。

「これからの状況において、考えられる活路は二つある。一つ目はここに迫っている敵の総大将源義経・範頼兄弟の首を取り、その勢いを以て都まで取り返すという現実的な場合。もう一つは上皇が停戦の斡旋をしてくれるという奇跡的な場合である」

 

 

朝廷の有力者藤原仲麻呂は、道鏡に傾倒する孝謙太上天皇を日ごろから諫めていたが、その為にかえって天皇の不況を買っていた。ある日、仲麻呂天皇に呼ばれこう問われた。

「そなたは私の人事に不満を持っているようだが、それでも朝臣か。朝臣ならば私の選任に口を出せるはずは無いのだが」

それを聞いた仲麻呂は大声を上げて笑いながら、

「貴方は出家してなお朝廷の人事を語るが、それでも尼か。尼ならば朝廷の人選に口を出せるはずは無いのですが」

 

 

 

冷泉天皇は、自分の狂気の気を案じて関白の藤原実頼に相談した。

「私は幼き頃から狂気の気があってな。この前も屋根の上に座り込んでしまったのだ」

「ほほう。それは一日中ですか?」

それを聞いた天皇は激怒した。

「一日中行ったのは蹴鞠である!屋根の上に一日中座るなど正気の沙汰では無いでは無いか!」

歴史的事件を判例風に言い換えるシリーズ

小さな矛盾は見逃してください。大きな矛盾は許してください。

 

 

歴史的事件を判例風に言い換えるシリーズ

 

 

方広寺鐘銘事件(評定所慶19・7)」

 

・・・本件において大御所の諱が分断され、鐘に刻まれたその一件を以てただちに豊臣家に大御所呪詛の企みありとすることは妥当ではない。しかしながら近年豊臣家が急速に軍備を進めている事、秀頼・淀両親子の反抗的な振る舞いが、本件と無関係であると断ずることは出来ない。そもそも豊臣家とは、先の関白豊臣秀吉公以来公家の頂点に立つ摂家としての責任が頑として存在するのであり、その運営には、一般的な武家よりも高度な責任が伴うものだと解される。これらの事情から考えるに、実際に文字を刻んだ僧甲に過失責任が認められることは勿論、豊臣家にも管理者責任が問われると解するのが妥当である・・・

 

 

「徳政令事件(問注所永5・3)」

 

・・・本法の目的とするところは、弘安の役によって疲弊した御家人の救済である。我が国の政治体制が京の帝とは別に武権の長としての将軍家を統治者として設置し、その支配体制として御家人体制というものが頼朝公以来根付いているという客観的事実に照らせば、当該御家人の疲弊が正当な職務の実行の結果であることに疑いの無い以上、本法の定めるところの「以前の怙却の分に至りては、本主領掌せしむべし」の一文によって生じる農民若しくは商人又はその他の非御家人身分の者が受ける負担は、御家人体制の元当然受忍すべき義務であると解され、原告の主張するような重大かつ明白な違法が存在するとは言えない。そもそも本法の定める三か条は、それによらないと御家人体制が崩壊するという極めて高度な政治的判断によって成立した物であり、そのような法を判断する事は、問注所の争う所ではない・・・

 

 

「昌泰の変(太政官昌4・1)」

 

・・・右大臣(以後甲)の受けた大宰員外師の職を極めて不当な左遷であるとして提訴した本件において、甲に明らかな過失は存在せず、また甲に大宰員外師を与える事による政治的必要性も存在しない事から、本件は不当な人事であると解される。尤も、本件が左大臣の意を酌んだか否かを問わず、最終判断を下したのが君であるという事情に照らせば、朝臣の人事に関しては君の広汎な裁量権に任されているものであるのであり、本件のような君の政治的判断による懲罰又は懲戒は、その判断が、重要な事実の基礎を欠くか、又は社会通念に照らし著しく妥当性を欠くと認められる場合に限って、裁量権の逸脱又は濫用として違法になるとすべきものと解するのが相当である。